岡山県総社市にある「鬼ノ城」。全長2.8kmの城壁が山を取り囲む古代山城です。ここは桃太郎の原型とも言われる吉備津彦命による「温羅退治」の伝承地でもありました。
今回は「鬼ノ城」の紹介です。歴史や見どころ等をまとめたので紹介します。
目次
鬼ノ城の歴史
築城者は誰? いつの築城?
西門(鬼ノ城) |
白村江の戦いと大和朝廷
鬼ノ城は、築城人物、築城年ともに不明です。歴史書に記載のない謎の城として知られていますが、大和朝廷が7世紀後半に築かせたという説が有力とされています。
天智2(663)年の「白村江の戦い」に大敗した大和朝廷は、唐・新羅による侵略を恐れ、西日本(九州、瀬戸内海沿い、畿内)各地に古代山城を築かせました。例えば、太宰府周辺にある「水城」や「大野城」などが有名です。「鬼ノ城」もこの時代に国土防衛のために築かれた城の一つとして考えられています。
また近年の発掘調査により、7世紀末から8世紀初頭の土器郡が中心に出土したことから、この時期に築城されたものだと裏付けられました。
白村江の戦い(663年)
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)は、日本(倭国)・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍との戦いです。天智2年8月(663年10月)、朝鮮半島の白村江(錦江の河口付近)にて勃発しました。
当時、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の三カ国によって争いが繰り広げられましたが、西暦660年に唐(中国)の後ろ盾を得た新羅(と唐の連合軍)によって、百済が滅亡に追い込まれます。すると百済の遺臣である鬼室福信(きしつふくしん)らは、百済の復興を目指し、日本に滞在中の百済の王子・扶余豊璋(ふよほうしょう)を擁立しようと、日本に救援を要請しました。斉明天皇や中大兄皇子(のちの天智天皇)はこれを受け入れ、那津(福岡県博多)に出征し、百済に援軍を送ります。
西暦663年、「白村江」の河口にて、日本軍と唐・新羅の連合軍が衝突しました。日本軍の船は待ち伏せされて挟撃にあったため次々と沈没し、「白村江」の海は血で真っ赤に染まったと云わています。以後、百済の再興は果たされることはありませんでした。
この敗北をきっかけに、中大兄皇子は朝鮮半島進出を断念し、国内の整備に努めるようになります。唐・新羅の侵攻を危惧して、那津の南に「大宰府」を設置し、「水城」などの山城を築いて防人を置くなど、海の防備を図りました。また都を「飛鳥」の地より内陸の「大津」に移しています。
鬼の居城?桃太郎のモデル?
鬼面(鬼城山ビジターセンター) |
吉備津彦命と温羅
吉備国(岡山県)には、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)が温羅(うら)と呼ばれる鬼を退治したという伝承が古くからあります。吉備津彦命は「桃太郎」の原型ともされる人物です。そして、「鬼ノ城」は温羅の居城と語り継がれてきました。「鬼ノ城」は鬼ヶ島のモデルとも言えます。
鬼(温羅)退治神話
昔、温羅という異国からやってきた鬼が「鬼ノ城」に住んで、吉備国で悪事を重ねていました。そこで吉備の人々は「大和朝廷」に助けを求めます。すると、大和朝廷の第10代崇神天皇は、四道将軍の一人である吉備津彦を遣わせました。
吉備津彦は、吉備の地に赴くと、中山に陣を構え、西に石の楯を築いて守りを固めます。一方、温羅も待ち構えており、戦いが始まりました。両者の放つ矢はどちらも激しく、空中で火花を散らして激突し、なかなか相手に届きません。そこで吉備津彦は一計を案じ、二本の矢を同時に放ちます。一本の矢は温羅の放った矢に当たり、もう一本の矢は温羅の目に刺さりました。温羅の目から大量の血が流れ出し、川(現在の血吸川)となりました。
負傷した温羅はキジに化けて逃げ出ますが、吉備津彦はタカに姿を変えて追いかけます。温羅は鯉に化けて川に飛び込むも、吉備津彦は鵜に姿を変えて追いかけ、ついに温羅を捕らえれて、首をはねるに至りました。
吉備津彦神社の鳴釜神事
その後、討たれた温羅の首は晒されることとなりましたが、温羅の首は何年も吠え続け、人々を悩ませます。首を犬に食わせて骨としても、骨を御釜殿の下に地中深くに埋めたとしても、うなり声は止むことがありませんでした。
ある夜のこと、吉備津彦の夢に温羅の霊が現れて、「私の妻、阿曽媛(あそひめ)に、御釜殿の火を炊かせよ。幸福が訪れるならば釜は豊かに響き、災が訪れるならば荒々しく鳴るだろう」と告げます。吉備津彦はお告げの通りにすると、うなり声は治まり、平和が訪れました。
その後、温羅は吉備津彦命の使いとなったと考えられ、吉凶を告げる神事が始まりました。現在でも「吉備津神社」では、釜の鳴動で吉凶を占う「鳴釜神事」として続けられています。
- 吉備津神社 「鬼退治神話」
温羅
温羅(うら)は、鬼ノ城を拠点とした古代の鬼と伝承される人物です。異国の鬼神や百済の王子との説もあります。伝承では討伐される鬼として描かれますが、製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であったとの見方もあります。
『日本書紀』や『古事記』では、第10代崇神天皇の命により、吉備に派遣された将軍・吉備津彦命が、弟とともに吉備を平定したと記されています。吉備津彦は大和朝廷が全国平定のために各地に派遣した四道将軍の一人であり、温羅は討伐された地方豪族の一人とも考えられます。勢力拡大をもくろむ大和朝廷にとって、吉備国で勢力を奮った温羅は脅威なる「鬼」と見なされたのかもしれません。
廃城はいつ?
鬼ノ城全景(鬼城山ビジターセンター) |
山城から山岳寺院へ
廃城時期は詳しくわかっていません。
しかし、近年の発掘調査により、遺物が多く発掘されました。発掘された土器郡は、7世紀後半から8世紀初頭のものが中心であり、生活していた時期だと考えられています。
また、平安時代の遺物がいくつも発掘されました。これらは仏教関連のものが多く、例えば「水瓶(すいじょう)」と呼ばれる須恵器は、平安時代に仏具として使用されたものです。
このことから、「鬼ノ城」は8世紀初頭に廃城(備蓄施設に移行)となり、後に同地に山岳寺院が建立され、平安時代には寺院が営まれていたのだと考えられます。実際、山岳仏教の寺として「新山寺」(現在の本山寺)や「岩屋寺」などが周辺に建立されています。
- 岡山県古代吉備文化財センター(パンフレット)『ここまで分かった鬼ノ城』
鬼ノ城の見どころ・景観(訪問写真)
鬼城山(標高400メートル)の8~9合目あたりを全長2.8キロメートルにも及ぶ城壁がぐるりと囲んでいます。
西門付近
「鬼城山ビジターセンター」から一番近くの遺構に「西門」があります。ここまでは車椅子でも通行可能で30分程で往復が可能です。西門周辺には、角楼、土塁なども復元されており、鬼ノ城の代表的な見どころになっています。また石畳のような敷石は、日本の古代山城だとここでしか見られない珍しいものです。
西門(鬼ノ城) |
西門と敷石(鬼ノ城) |
敷石(鬼ノ城) |
土塁・石塁(鬼ノ城) |
神籠石の遺構群
「神籠石(こうごいし)」とは列石や土塁で囲まれた古代山城(鬼ノ城含む)を表す歴史用語です。鬼ノ城には、高石垣や列石、土塁など様々な遺構が残っています。
神籠石状列石(鬼ノ城) |
五番観音(鬼ノ城) |
土塁の上(鬼ノ城) |
南門・東門・北門跡
西門以外の各門は、「鬼ノ城」を一周すると見ることができます。正門候補の南門、全て丸柱(他の門は角柱を多用)の東門、唯一背面に位置する北門がありました。
南門(鬼ノ城) |
東門(鬼ノ城) |
北門(鬼ノ城) |
屏風折れ
鬼ノ城で最も著名な高石垣が拝めます。訪問時は雨であまり写真は残せていませんが、眺望が素晴らしかったです。
屏風折れ(鬼ノ城) |
屏風折れの石垣(鬼ノ城) |
以上、鬼ノ城の景観でした。
鬼ノ城の周辺おすすめスポット
吉備津神社
備中国(岡山県西部)の一宮神社です。「一宮」とは、旧国で最も社格の高いとされる神社のことを指します。桃太郎の原型とも云われる吉備津彦命に関係するお社です。吉備津彦命は、鬼ノ城主・温羅を退治する際に、この地を本陣に構えたと伝わります。
吉備津彦神社
こちらは備前国(岡山県東南部)の一宮神社です。「吉備津神社」と同じく吉備津彦命に関係するお社です。境内にある「温羅神社」は、鬼ノ城を居城とした温羅の和魂を祭神として祀っています。
鬼ノ城へのアクセス・駐車場
(訪問日:2022年06月)
お城を巡られるならば、100名城のスタンプラリーに参加されると更に楽しめると思います。『日本100名城ガイドブック』に付属するスタンプ帳を利用するのがおすすめです。今回紹介した「鬼ノ城」は日本100名城に選ばれています。
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