岡山県岡山市にある「備中高松城」。この湿地帯の平城は、羽柴秀吉の水攻めで有名です。水攻めの最中、「本能寺の変」で主君・織田信長が討たれたことを知った秀吉は、10日間の「中国大返し」を経て、天下への道を駆け上がりました。現在の城址は歴史公園として整備されています。
今回は「備中高松城」に行ってきました。歴史や見どころ等をまとめましたので紹介します。
目次
備中高松城の歴史
築城者は誰? いつの築城?
清水宗治公像(高松城址公園資料館) |
備中国守護代・石川氏
備中高松城は、三村元親の命により、石川久式(石川久孝とも)によって築かれました。永禄年間(1558-1570)に築城されたと考えられています。
石川久式の死後は、石川氏の娘婿である清水宗治が新たな城主になりました。その後、毛利氏の傘下となった清水宗治は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による「中国攻め」の進軍を迎え受つこととなります。
三村元親(??~1577)
三村元親(みむらもとちか)は、「備中松山城」を本拠にして、備中国(岡山県西部)一帯を治めていた戦国大名です。
父・三村家親は安芸国(広島県)の毛利元就と結んで備中国を支配し、備前国(岡山県東南部)や美作国(岡山県東北部)にまで領土を広げましたが、備前国の宇喜多直家によって鉄砲で暗殺されてしまいます。
家督を継いだ三村元親は「明善寺合戦」にて宇喜多直家と戦いますが大敗し、父と同じく毛利氏と結んで勢力回復を志しました。しかし、毛利氏が宇喜多直家と結んだため、毛利氏から離反して織田信長と通じることになると、毛利氏・宇喜多氏に侵攻され、「備中松山城」に籠城するも降伏し、松連寺にて自刃しました。
石川久式(?? -1577)
石川久式(いしかわひさのり)は、「備中高松城」を築城したと考えられている人物です。石川氏は「幸山城」を居城とし、「吉備津神社」(備中国一宮)の社務代や備中国の守護代を務めていました。
義兄・三村元親に協力して毛利氏の傘下に入りますが、後に三村元親に従って毛利氏から離反します。「備中松山城」に籠城する三村元親を救援するために自らも入城しましたが、毛利氏に敗れて自刃しました。
合戦の地となったか?水攻め?
高松城址公園 |
天正10(1582)年、「備中高松城の戦い」がありました。織田信長の命を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、毛利氏配下の清水宗治が守る「備中高松城」を攻めた合戦です。
秀吉の中国攻めと高松城の水攻め
羽柴秀吉軍は3万の大軍を率いて、「備中高松城」を見下ろす龍王山(後に石井山)に本陣を構えます。毛利氏は織田家の侵攻に備え、足守川沿いの南北に並ぶ「備中七城」と呼ばれる7つの城を整備して防衛ラインにしましたが、秀吉の手によって次々と落城していきました。
しかし、七城の内の一つ「備中高松城」は湿地帯に囲まれ、人馬の進みづらい要害の城です。秀吉軍は2回にわたって攻撃するもうまくいかず、城主・清水宗治に利をもって降伏するように勧めましたが、義を重んじる宗治は応じません。味方の兵に多くの損失が出ることを危惧した秀吉に、宇喜多家家臣の花房正成(諸説あり)が「水攻め」の策を提案します。
この策を受け入れた秀吉は、西北部分から約2.7キロメートルにわたる堤防(高さ約7メートル)を12日間で構築すると、足守川をせき止めて水を引き入れました。『黒田家譜』(福岡藩主黒田家の歴史書)によると、軍師・黒田孝高(官兵衛)が堤防を築いたと書かれています。梅雨期の大雨による増水もあり、「備中高松城」の周りはたちまち湖のようになり、城は孤立しました。これがかの有名な「高松城の水攻め」です。
急報を受けて、毛利の総大将・毛利輝元は、小早川隆景、吉川元春らと共に救援に向かいますが、着陣したときには時すでに遅し。周辺が水没した湖の孤城を前に傍観するしかありませんでした。
本能寺の変と清水宗治の切腹
天正10年6月3日夜、水攻めの最中、秀吉のところに「本能寺の変」の知らせが届きます。主君・織田信長が明智光秀によって討たれたとの内容でした。信長の死を知った秀吉は、弔い合戦で明智光秀を討つべく、毛利方との和睦を一気にすすめる姿勢を見せます。
一方、城主・清水宗治は、自らの首を差し出す代わりに、主家の安泰と城兵の命を助けることを条件に嘆願書を出していました。6月4日、清水宗治は湖上に船を浮かべて自刃し、織田方と毛利方の和睦が成立します。
- 岡山市(パンフレット)『高松城水攻め 驚天動地の奇策』
- 岡山市(パンフレット)『高松城址公園 資料館』
清水宗治(1537 -1582)
清水宗治(しみずむねはる)は、備中高松城を本拠とした戦国時代の武将です。備中高松城を築城した石川氏の娘を娶った後に、毛利氏の傘下に入り、小早川隆景に属しました。
天正10年(1582)、羽柴秀吉が中国攻めに着手すると、備中国・備後国の2カ国を与えることを条件に味方になるようにと勧められます。宗治は、利よりも義を重んじて交渉を断り、備中高松城を堅守しましたが、秀吉の「水攻め」によって落城寸前にまで追い込まれました。
最終的に、主家の安泰と城兵の助命を和睦の条件にして、自刃を承諾します。宗治は、身だしなみを整え、小舟を浮かべると、秀吉から送られた酒肴で最後の盃を交わし、「誓願寺」の曲舞を披露した後に自刃しました。この見事な切腹の作法は、後に「武士の鑑」と称賛されるほどでした。辞世の句に「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふの)の 名を高松の 苔に残して」と残しています。
廃城の理由は?
徳川家康公之像(駿府城) |
花房氏と一国一城令
天正10(1582)年、「備中高松城の戦い」の後は、宇喜多氏の家臣・花房正成(はなぶさまさなり)が入城し、この地を治めることとなります。慶長5(1600)年、「関ケ原の戦い」の後には、花房職秀(はなぶさもとひで)が入城しました。この頃になると、花房氏は徳川家康に仕えています。
しかし、慶長20(1615)年、江戸幕府から諸大名に対して、「一国一城令」が命じられ、備中高松城は廃城になりました。当時の将軍は徳川秀忠でしたが、法令の立案者は徳川家康だったと考えられています。
花房正成(1555-1623)
花房正成(はなぶさまさなり)は、「備中高松城の戦い」の功により、「備中高松城」の城主になった人物です。宇喜多家の家臣であり、「水攻め」を進言した人物と考えられています。
慶長4年(1599年)、「宇喜多騒動」で宇喜多家を去ると、「関ケ原の戦い」の後に徳川家康に仕えて、江戸幕府の旗本となります。旗本となった後も、八丈島に流罪となった旧主君・宇喜多秀家の身を心配し、助勢米を送るなど、終生援助しました。
備中高松城の景観(訪問写真)
高松城址公園
備中高松城址です。現在は歴史公園として整備されており、本丸跡には清水宗治の首塚、資料館には「水攻め」についての資料が展示してあります。
また四季折々の花が楽しめる市民憩いの公園でもあります。本丸と二の丸の間のハス池は、沼の復元の際に、地下に四百年眠っていたハスが自然に生えたもので、清水宗治にあやかって「宗治蓮」と呼ばれています。
二の丸付近
高松城址公園 |
高松城址公園 |
高松城址公園資料館前 |
本丸付近
宗治辞世の句の碑(本丸) |
清水宗治公首塚(本丸) |
宗治蓮(ハス池) |
清水宗治自刃の地(妙玄寺周辺)
高松城址公園の近くに「妙玄寺」があります。慶長5(1600)年、高松城主・花房職秀(職之)により花房家の菩提寺として建立されました。清水宗治の自刃の場所と伝わり、向かいの山には秀吉軍本陣跡(白旗が立っている)が肉眼で確認できます。お寺の近くには、清水宗治の家臣が主君を追って互いに刺し違えて殉死した「ごうやぶ遺跡」が残っています。
高松山 妙玄寺 |
清水宗治公供養塔(妙玄寺) |
山間に秀吉本陣跡の白旗が見えている(ごうやぶ遺跡) |
以上、備中高松城の景観でした。
備中高松城の周辺おすすめスポット
吉備津神社
備中国(岡山県西部)の一宮神社です。「一宮」とは、旧国で最も社格の高いとされる神社のことを指します。桃太郎のモデルとも云われる古代の皇族・吉備津彦命に関係するお社です。また「備中高松城」を築城した石川氏は、吉備津神社の社務代を勤めていました。
吉備津彦神社
こちらは備前国(岡山県東南部)の一宮神社です。「吉備津神社」と同じく吉備津彦命に関係するお社です。赤松氏や宇喜多氏、小早川氏、池田氏など歴代の大名から崇敬を受けました。
備中高松城へのアクセス・駐車場
(訪問日:2022年06月)
お城を巡られるならば、100名城のスタンプラリーに参加されると更に楽しめると思います。『日本100名城ガイドブック』に付属するスタンプ帳を利用するのがおすすめです。今回紹介した「備中高松城」は続日本100名城に選ばれています。
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