鳥取県米子市にある「米子城」。「海城」と「山城」の要素を合わせ持つ平山城です。
かつて存在した二つの天守は失われていますが、天守跡からは「大山」や「中海」、城下町を眺望できる絶景の地となっています。
先日、そんな「米子城」を訪れました。歴史や見どころ等をまとめましたので紹介していきます。
目次
米子城の歴史
築城者は誰? いつ建てられた?
山名宗之と吉川広家
米子城の始まりは、応仁3年(1470)頃に、山名宗之が「飯山」に築いた砦だと伝わります。(当初の米子城が「飯山」にあったかは諸説あります)
近世城郭としては、天正19年(1591)に、吉川広家が「湊山」に築城したのが始まりです。それまで米子城と呼ばれた「飯山」の城砦も出丸として利用しました。
しかし、米子城が7割ほどが完成した慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」が起こり、吉川広家の主君・毛利輝元は所領のうち周防国・長門国(山口県)以外の全ての領地が没収されることとなります。吉川広家もそれに従い、岩国領へと転封されることになりました。
最終的には、吉川広家の代わりに駿府国(静岡県)から入った中村一忠が慶長7年(1602)頃に完成させています。
吉川広家(1561-1625)
吉川広家(きっかわひろいえ)は、祖父に毛利元就、父に吉川元春を持つ毛利家の重臣です。
天正19年(1591)、豊臣秀吉の命により、「月山富田城」に入城して14万石を領すると、西伯耆の拠点支城として「米子城」の築城を開始しました。
慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」では、主君の毛利輝元が西軍の総大将に就任しながらも、徳川家康率いる東軍と内通し、東軍の勝利に貢献します。戦後は毛利家を改易の危機から救い、周防国岩国領(山口県岩国市)の初代領主となっています。
合戦の地となったか?
横田騒動(米子城騒動)
近世城郭の「米子城」は、一度も外敵との戦地とはなっていません。
しかし、慶長8年(1603)、「横田騒動」(米子城騒動)と呼ばれる内紛が城内で起こっています。
きっかけは、米子藩の筆頭家老である横田内膳が城内で誅殺されたことでした。その結果、米子藩と横田一族との武力紛争を招く大事件に至ります。横田一族は飯山(戦国期の米子城)に立てこもって戦いました。それに対して、当時の城主・中村一忠は、隣国の出雲国領主の堀尾吉晴・忠氏(松江城城主)に助勢を求めて、なんとか内紛を鎮圧するに至りました。
横田内膳(1552?-1603)
横田内膳(よこたないぜん)は、米子城や城下町建設に尽力した人物です。本名は村詮。「阿波国」(徳島県)の三好一族の家に生まれたとされ、三好康長の甥と云われます。中村一氏が「岸和田城主」に命じられた際に召し抱えられ、一氏の妹を妻としました。
慶長5年(1600)、「関ケ原の戦い」の直前には、駿府城下の自らの屋敷で一氏と徳川家康との会談に尽力。戦後に一氏の子・中村一忠が「伯耆国」(鳥取県)に17万5000石が与えられると、まだ幼い一忠(10歳)の後見役および執政家老となるようにと、家康に直々に命じられます。
その後は、藩主・一忠を補佐し、米子城や城下町を完成させ、現在の米子市の礎を築きました。しかし、その手腕と地位を妬まれ、側近の甘言を信じた一忠によって、城内で誅殺されてしまいます。
横田騒動(1603年)
慶長8年(1603年)、米子藩にて起こった内部紛争です。横田内膳が米子城内で誅殺されたことを背景にして、米子藩と横田一族との武力紛争を招く大事件に発展しました。
横田一族や客将の柳生宗章は、飯山(戦国期の米子城)に立てこもって激しく抵抗。これに対して、米子藩主・中村一忠は隣国の出雲国領主の堀尾吉晴・忠氏(松江城城主)に助勢を求め、なんとか内紛の鎮圧を成功させ、横田一族は自刃して滅亡に至りました。
騒動後、この事件の報告を受けた将軍・徳川家康は、一忠の後見役に自らが任じた横田内膳を殺されたことに激怒。藩主・一忠をそそのかした首謀者だけでなく、事件を阻止できなかった側近をも切腹に処しました。
有名な城主は?歴代の城主は?
中村一氏
城主ではありませんが、米子藩誕生のきっかけとなった人物に中村一氏がいます。豊臣秀吉の家臣として活躍しました。「関ヶ原の戦い」の直前に病没しますが、東軍についた功が認められて、子の一忠が「伯耆国」を与えられ、米子城主となります。
中村一氏(? ? -1600)
中村一氏(なかむらかずうじ)は、豊臣政権の「三中老」の一人とされる人物です。
早くから木下秀吉(豊臣秀吉)に仕え、「岸和田合戦」や「小田原征伐」などで活躍。秀吉の信任厚く、多くの武功を重ねたことから、「駿河国府中」(静岡県)14万石が与えられました。
「関ヶ原の戦い」の直前に病没しますが、東軍についた功が認められ、子の一忠が「伯耆国」17万5000石が与えられ「米子藩」が誕生。「米子城」を完成させています。
米子藩の廃藩と荒尾氏
慶長14年(1609年)、中村一忠が20歳で急死すると、「横田騒動」の影響もあり、中村氏は改易されることとなりました。
代わって加藤貞泰が美濃国黒野藩(岐阜県岐阜市)から6万石で入封します。しかし、「大坂の陣」で功を上げ、元和3年(1617)に伊予国大洲藩(愛媛県大洲市)に移封となり、米子藩は廃藩となりました。
米子藩が廃藩となると、「米子城」は鳥取藩の領地となります。初めは、播磨国姫路藩(兵庫県姫路市)から転封してきた池田光政の領地となり、光政が岡山藩に国替になると、寛永9年(1632)に池田光仲が新たに鳥取藩の藩主となりました。
「米子城」には、池田家の筆頭家老・荒尾成利が城代として置かれます。その後、明治維新に至るまで、池田氏家老の荒尾氏によって自分手政治(委任統治)されることとなりました。
廃城理由は?
明治2年(1869)、荒尾氏による「自分手政治」が廃止され、朝廷の命により、藩庁へ引き渡されることとなります。明治5年(1872)には、米子駐在の大四大隊の士族らに無償で払い下げられ、翌年には建物の大半が売却され、数年後に取り壊されました。
米子城の見どころ(訪問記)
内膳丸
右下の突き出た曲輪が「内膳丸」(撮影場所は「本丸」) |
中腹にある「内膳丸」。米子城と城下町を完成させ、現在の米子市の礎を築いた横田内膳に由来する「出丸」です。(出丸とは、本城から出っ張って設けられた「曲輪」のこと。曲輪とは、土塁や石垣などでつくった区画のことです)
本丸に次ぐ二ノ丸として築かれた曲輪と考えられ、当時は数棟の二重櫓や武器庫が建ち、北側の防衛拠点とされていました。近年の発掘調査により、「内膳丸」の御門から「遠見櫓」にかけて、「登り石垣」が確認されています。
「頂上 内膳丸跡登り口」 |
復元VR(ストリートミュージアム®︎) |
横田内膳といえば、「横田騒動」(米子城騒動)という痛ましい事件がありました。横田内膳が城内で誅殺されたことをきっかけに、横田一族と米子藩の武力紛争に発展する大事件です。詳しくは、「米子城の歴史」の項にて紹介しています。
騒動時、横田一族は、飯山(戦国期の「米子城」)に立てこもって抵抗したと云われますが、この「内膳丸」にて戦ったという説もあります。騒動後、横田一族は自刃して滅亡に至りました。
横田一族を偲び、登山道に戻ると、虹が出ていました。 |
番所跡
本丸の入り口に「番所跡」があります。形態は「枡形虎口」になっています。(「桝形虎口」とは四角く囲った城の入り口のことです。ここに侵入してきた敵兵を、囲まれた空間の周りから、矢玉を浴びせる防衛施設の役割をしています)
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「番所跡」から静かに城下を眺められました。ベンチも置かれています。残念ながら、「大山」は雲に隠れてはっきりとは見られませんでしたが、街の景色に癒やされました。晴れた日はもっと見事なんでしょうね。
天守台
左が小天守台 右が大天守台 |
天守のVR復元(ストリートミュージアム®︎) |
「番所跡」を振り返ると、2つの「天守台」が見えます。すぐそこが頂上にある天守跡です。かつては、四重の天守と五重の天守の大小2つが並び建っていたそうです。
小天守の方は「米子城」を築城開始した吉川広家の時代のもので、大天守の方は新たに城主となった中村一忠の時代に建てられたものだと考えられています。
「天守台」に向かうために更に登り、「遠見櫓」(ここから眼下に中海が広がります)を通り過ぎると、「天守跡」に到着します。麓から15分ほどでした。
いざ天守台へ |
広い! |
天守閣の礎石 |
天守台からは、海も山も空も街も全てが眺められます。晴れた日に是非もう一度来たいですね。前日、「月山富田城」の近くで見た大山の冠雪がなんとも美しいかったので、絶景と云われるこの場所から見てみたかったです。
手前は「飯山」。横田一族が立てこもった場所 |
「中海」も望めます |
以上、米子城の見どころ・訪問記でした。
米子城の周辺おすすめスポット
米子山陰歴史館
米子の民俗資料や「米子城」の資料などが展示してあります。「米子城」の復元模型があり、当時の2つの天守のイメージがよく掴めました。また「米子城」への道のりを訪ねると、受付の方がとても親切に教えてくれたのが印象に残っています。こちらで御城印や「日本100名城」のスタンプなども貰えます。
弓ヶ浜海岸
米子と境港にまたがって続く「弓ヶ浜半島」。弓のように弧を描く海岸線が、約20kmにわたって続いています。名峰「大山」を遠望でき、名湯「皆生温泉」もあります。
境港・水木しげるロード
境港にある妖怪の道「水木しげるロード」。道の両側には177体の妖怪ブロンズ像が! 少し遠いですが、米子からバスや電車で行けます。
米子城のアクセス・駐車場
終わりに
今回は雨や時間に追われ、なかなか満足に見学できませんでした。米子の街もゆっくりと歩いてみたいので、またいつの日か訪ねてみたいです。
「天守台」まで15分ほどなので、気軽に登れるお城。地元の憩いの場としても素晴らしい場所ですね。次こそは「大山」を拝みたいです。
以上、米子城の魅力が少しでも伝わっていれば嬉しいです。
(訪問日:2021年12月)
お城を巡られるならば、100名城のスタンプラリーに参加されると更に楽しめると思います。『日本100名城ガイドブック』に付属するスタンプ帳を利用するのがおすすめです。今回紹介した「米子城」は続日本100名城に選ばれています。
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