【島根県】津和野城の紹介(日本100名城)

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史跡巡り

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城地 山城(連郭式)
築城/廃城 1295~1871年
築城者 吉見頼行、吉見頼直、坂崎直盛
主な城主 吉見氏、坂崎直盛、亀井氏
天守 天守台のみ残る
別名 三本松城、一本松城、蕗城(つわぶきじょう)、橐吾城(たくごじょう)
スタンプ リフト茶屋(9:30-16:30)
0856-72-0652(津和野町役場商工観光課)
滞在時間 2時間~2時間30分

鳥取県鹿足郡津和野町にある「津和野城」。鎌倉時代、霊亀山に30年がかりで築かれた山城です。

この中世山城は、「関ヶ原の戦い」の功で入城した坂崎直盛によって、壮大な高石垣を有する近世城郭へと大改修されました。今も城趾には累々と築かれた石垣が残っています。

今回は「津和野城」に行ってきました。歴史や見どころ、周辺スポットなどをまとめましたので紹介していきます。


目次

津和野城の歴史

築城者は誰? いつ建てられた?

津和野城(当時は三本松城)は、吉見頼行によって築かれました。永仁6年(1295)に築城が開始され、正中元年(1324)に頼行の子・吉見頼直が完成させます。

以後、吉見氏の居城として、慶長5年(1600年)まで続きました。

引両の家紋 (石見)吉見氏

吉見氏は、源頼朝の弟・源範頼を祖とする一族です。

弘安5年(1282)、鎌倉幕府からの命により、西石見の海岸防備の役目(蒙古の再襲来の備えのため)を与えられ、地頭として能登国(石川県北部)から下向します。津和野に城を築き、石見国に土着すると勢力を拡大。石見の二大国人として、益田氏とともに名を馳せました。

室町時代になると、周防国(山口県東部)の大内氏が勢力を拡大するようになり、大内氏に従うようになります。後に毛利氏の家臣となりますが、「関ヶ原の戦い」によって毛利氏が周防国・長門国(山口県)に押し込められると、毛利氏に従って津和野を去りました。

合戦の地となったか?

陶軍の侵攻で戦火に見舞われた鷲原八幡宮

三本松城の戦い

天文23年(1554)、「三本松城の戦い」がありました。周防・長門国(山口県)の大名・大内義長と陶晴賢が、三本松城(津和野城)を守る吉見正頼を攻めた戦いです。

この背景には、吉見氏の主君・大内義隆が、陶晴賢の謀反によって討たれた「大寧寺の変」があります。吉見正頼は主君の弔い合戦のために挙兵したのに対して、陶晴賢は新当主に大内義長を奉じ、大軍を率いて津和野に侵攻しました。

陶晴賢は三本松城を包囲すると総攻撃を開始。幾度となく攻防戦を繰り広げましたが、陥落に至りませんでした。吉見正頼は、100日以上に及ぶ籠城戦に耐えた後に、和睦に持ち込みます。

「三本松城の戦い」は、後に大大名となる毛利元就が台頭するきっかけとなった合戦でもあります。毛利元就陶晴賢が三本松城攻めに釘付けにされている隙に、安芸国(広島県)の陶晴賢側の諸城を電撃的に陥落させて力を蓄えると、翌年には陶晴賢を破りました(厳島の戦い)。

三本松城の一部(尾根伝いに南にある)である「中荒城」には、毛利の家臣が手勢を率いて援軍に駆けつけ、防備増強に協力した逸話が残っています。

引両の家紋 吉見正頼(1513 -1588)

吉見正頼(よしみまさより)は、三本松城(津和野城)を本拠とした吉見氏の第10代当主です。当初は僧籍でしたが、兄・隆頼が不慮の死を遂げたために還俗して家督を継ぎ、隆頼の正室であった大宮姫(大内義隆の姉)を娶りました。

天文20年(1551)、主君・大内義隆が守護代・陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって死亡すると、陶晴賢と敵対。正頼が守る三本松城陶晴賢に大軍を率いて攻められましたが、100日以上に及ぶ籠城戦に耐え、最終的には子・広頼を人質に出して講和しました(三本松城の戦い)。

天文24年(1555)に「厳島の戦い」で陶晴賢毛利元就に破れると、弘治3年(1557)に毛利元就と同調して大内氏領に侵攻し、山口を陥落させます。大内氏が滅ぶと毛利氏の家臣となりました。

 陶晴賢(1824 -1869)

陶晴賢(すえはるたか)は、戦国時代の大内氏の重臣です。

大内義隆の筆頭家臣として長らく政権の中枢にいましたが、「第一次月山富田城の戦い」の大敗や、文治派の相良武任との確執などにより、大内義隆との関係が悪化。天文20年(1551)、主君・大内義隆を自害に追い込み、大内義長(大友宗麟の弟)を新たな当主として迎え入れます。

天文23年(1554年)、自身を仇敵とする吉見正頼と敵対し、三本松城(津和野城)を攻めますが、安芸国(広島県)の毛利元就とも対立。翌年の「厳島の戦い」で毛利元就に敗北して自刃しました。

歴代城主は?誰が治めた城?

坂崎直盛が築いた石垣

1600(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」において、西軍の総大将・毛利輝元が敗れ、周防国・長門国2か国(山口県)に押し込められると、吉見氏も津和野を退去して萩に移住することとなりました。

代わりに「関ヶ原の戦い」の功により、津和野に入封したのが、坂崎直盛です。現在の本城と織部丸の位置に石垣を多用し、「津和野城」を近世城郭へと大改修しました。

傘の家紋  坂崎直盛(1563? -1616)

坂崎直盛(さかざきなおもり)は、江戸時代初期に津和野を治めた大名です。元々の名前は、宇喜多詮家(うきたあきいえ)です。宇喜多忠家の子として生まれ、従弟の宇喜多秀家に仕えて、2万4000石の知行を与えられていました。

慶長4年(1599)、「宇喜多騒動」が発生すると主君・宇喜多秀家と対立することとなります。翌年の「関ヶ原の戦い」では、主君と逆の陣営である徳川家康率いる東軍に与し、戦後はその功績により、石見国浜田(島根県浜田市)2万石、後に石見国津和野に3万石を与えられ、津和野城主となりました。

その後の「大坂の陣」では、徳川家康の娘孫・千姫を大阪城から救出しますが、千姫の再嫁を巡って幕府と対立。対立の理由は諸説ありますが、千姫を嫁をもらえるという約束を反故にされたという説が一般的です。最終的には千姫を奪おうとするも露見し、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したと伝わります(千姫事件)。

元和3年(1617年)、坂崎直盛が「千姫事件」で改易処分となると、亀井政矩が4万3000石で因幡国鹿野藩(鳥取県鳥取県鹿野町)より入封します。

以後、「津和野城」は、明治維新まで11代にわたり、亀井氏の居城となりました。

四つ目結の家紋 亀井政矩(1590-1619)

亀井政矩(かめいまさのり)は、江戸時代前期の津和野藩主です。父の亀井茲矩(かめいこれのり)は、尼子氏の家臣の生まれで、主家再興のために山中鹿介らと共に毛利氏と戦い、後に羽柴秀吉のもとで功績をあげ、鹿野城主(鳥取県鳥取市鹿野町)となった人物でありました。

亀井政は、幼き頃から二代将軍・徳川秀忠付の近習となり、父の病没後は因幡国鹿野を継ぎ、その後に石見国津和野に移封を命じられました。幕府からの信任厚く、播磨国姫路藩(兵庫県姫路市)への加増移封の話もありましたが、早世したため実現せずに終わっています。

廃城理由は?

明治4年(1871)、「廃藩置県」により、津和野藩は浜田県(島根県)に属すこととなります。明治6年(1873)、「廃城令」が公布されると、津和野城は商人・三上喜左衛門に払い下げられ、翌年には建造物が解体されることとなりました。

津和野城の見どころ(訪問記録)

津和野城の見どころは、山上に累々と築かれた石垣などの遺構群です。他に個人的に面白いと思ったところは、登城道が3ヵ所あるところでした。どの登城道も魅力あふれるものだったので、こちらで併せて紹介しようと思います。

登城道その1「太皷谷稲成神社」

表参道側(太皷谷稲成神社)

太皷谷稲成神社

「本丸」までの登城口の一つが「太皷谷稲成神社」の裏参道にあります。

「太皷谷稲成神社」は、津和野藩主の亀井氏が、城の鎮護と領民の安泰を祈願して、津和野城の鬼門(北東)に建立した神社です。日本5大稲荷の一つにも数えられます。

今では観光スポットとしても人気ですが、かつては藩主以外の参拝が禁じられた場所でもありました。津和野の城下町から山を見上げると、津和野城趾神社社殿が見えます。昔の人たちはこの2つの名物を見上げながら、日々暮らしていたことがわかります。どんな思いで見上げていたのでしょうか。

津和野駅から歩くならば城下町を通って表参道へ、自動車ならば裏参道にある駐車場が利用できます。津和野城の御城印もこちらの神社で売られていました。

境内(太皷谷稲成神社)

裏参道側(太皷谷稲成神社)

登城道「中国自然歩道」

登城道は「太皷谷稲成神社」の裏参道側にあります。神社の駐車場から道路を降りていくとすぐに到着します。

もし登山に自信がなかったり、時間のない方は、登山口すぐ近くにある「津和野城跡観光リフト」を利用しましょう。そちらで「日本100名城」のスタンプも押すこともできます。

登城道の山道は舗装されており、歩きやすかったです。ただし、所々に手すりはないので注意は必要です。途中、リフトの側を何度か通ります。

しばらく登ると、出丸跡「織部丸」があり、中世山城の遺構が見られました。(私が訪れた時は、残念ながら工事中で見学できませんでした)




「織部丸」の先は、本城の東門前にあたります。開けた場所があり、トイレや小屋が設置されていて一休みできました。「大手登城道」との合流地点でもあります。

この先5分で「本丸」に到着します。



登城道その2「城山大手登城道」

石垣(城山大手登城道)

城山大手登城道

二つ目の登城口は、江戸時代に実際に使われていた登城口です。慶長(1600)、坂崎直盛が入城すると、こちらを大手(正面)として整備し、現在の市街地(霊亀山東麓)に城下町が作られました。

それまでの吉見氏の時代(鎌倉~戦国時代)には、城の搦め手(裏側)に位置していました。吉見氏の屋敷は、山の反対側(霊亀山西麓・喜時雨)にあったと云われます。

坂崎直盛が津和野城を近世城郭へと大改修した際にも、この登城道を用いて、石材が運搬されたと考えられています。そんな時代に思いを馳せて登ってみると、より楽しめると思います。

場所は、「津和野高校」の正門近くにあります。「津和野高校」はかつて津和野藩邸があった場所で、付近には「物見櫓」や「馬場先櫓」が残っています。高校のグラウンドからは「太皷谷稲成神社」の社殿も見えました。


ただし、「太皷谷稲成神社」側の登城道のように舗装された道ではなく、急斜面で直線的なので登りづらいです。十分に注意をして下さい。熊も出るらしいので...。私はなんと野生のフクロウを目撃しました。

東門前で「太皷谷稲成神社」の登城道と合流します。


野生のフクロウ
東門前

登城道その3「鷲原八幡宮」

鷲原八幡宮境内

鷲原八幡宮

三つ目の登城道は、「鷲原八幡宮」の境内にあります。

「鷲原八幡宮」は、鎌倉時代、吉見氏が「鶴岡八幡宮」(神奈川県鎌倉市)から勧請した神社と伝わります。吉見氏が津和野の地から退いた後も、津和野の城の守護神として崇められました。城の裏鬼門(南西)に位置しており、奇しくも、城の鬼門(北東)を守る「太皷谷稲成神社」と対のような関係になっています。

「鶴岡八幡宮」を模したという流鏑馬(やぶさめ)馬場は、日本で唯一の現存馬場で、当時の原型をとどめています。馬場の土塁は美しく、境内は古の雰囲気を醸し出す神秘的な場所でした。

「鷲原八幡宮」から「津和野城跡」を通り、「太皷谷稲成神社」へと辿る道は、「中国自然歩道」にも指定されています。




登城道「中国自然歩道」

中世の遺構が感じられる登城道です。

戦国時代の合戦「三本松城の戦い」では、陶晴賢が「鷲原八幡宮」の前を流れる津和野川の対岸の山に本陣を構え、三本松城(津和野城)に度重なる攻撃を仕掛けました。こちらの登城道からは「三本松城の戦い」において唯一焼け残った大杉、中世山城の「中荒城」跡が辿れます。

他の登城道とは違い、「南門」で主郭部に合流します。

登城口


津和野川

高石垣「人質郭」と「三ノ丸」

以下、主郭の紹介です。

「三ノ丸」の南部にそびえ立つ「人質郭」の高石垣は圧巻でした。高さ10メートルの石垣の上には当時は櫓が建ち、石垣の前方には番所があったと云われます。曲輪の先は、「南櫓門跡」から尾根を南に下って「中荒城跡」、「鷲原八幡宮」へと続いています。

これは凄い。一目でお気に入りに。


VR宣伝の看板が置いてあったので、 アプリをインストールしてみました。凸版印刷さんの「ストリートミュージアム®︎」です。

アプリを使ってみると、当時の姿がわかりやすく掴めて感動しました。他のお城でも使えるようなので、これからの城巡りの楽しみが増えました。利用規約にて、SNS及びブログにスクリーンショットをアップロードするのは可能との旨が記載されていたので、下記に比較の写真を貼らせていただきます。

現地で撮った三ノ丸南部の風景
ストリートミュージアム®︎

他にも「三ノ丸」には多くの遺構が残っています。累々と築かれた石垣群は見ごたえ抜群です。「東門」から「南門」にかけては中国自然歩道が通っています。

東門跡
腰曲輪
西櫓門跡
海老櫓跡

二ノ丸にある「天守台」

津和野城には、かつて三層の天守閣が建っていました。今は天守台のみが残っています。天守というのは城の中心部(本丸)にあるイメージですが、津和野城では「二ノ丸」にありました。(他に「二ノ丸」に天守がある例としては、徳島城などがあります)

三ノ丸西側から見た天守台
ストリートミュージアム®︎
石垣は石英閃緑岩が使われています。大きい石は2トン以上

極上の眺め「三十間台」・「太鼓丸」

天守台のある「二ノ丸」の更に上には、「三十間台」という曲輪が広がっています。津和野城の最高所であり、ここからの眺めは極上です。正面には青野山、眼下には津和野の町が一望できます。





「三十間台」から一段下がると「太鼓丸」があり、こちらからの眺めも最高です。ベンチも用意されていたので、ここで朝食をいただきました。一服、眼福、満腹、最高でした。




以上、津和野城の見どころ・景観でした。

津和野城の周辺おすすめスポット

津和野の町歩き

津和野の町は、「山陰の小京都」と呼ばれており、風情ある城下町の町並みが今でも色濃く残っています。城下町をのんびりと歩き、好きな名所を巡り、お土産に「源氏巻」を買うのがおすすめです。津和野藩の屋敷跡や関連寺社、キリシタン殉教の流れを汲む教会、安野光雅や森鴎外などの美術館、SLやまぐち号など、見どころが満載です。


津和野城へのアクセス・駐車場

所在地 島根県鹿足郡津和野町後田477−20
電話番号 0856-72-0376(津和野町城跡観光リフト)
アクセス JR津和野駅から徒歩約20分で登り口
登り口からリフトと徒歩で約15分
駐車場 「津和野町城跡観光リフト」前に無料駐車場あり
休城日 年中無休!
リフトの営業時間は9:00~16:30(12~2月の平日は運休)

(訪問日:2021年12月)

お城を巡られるならば、100名城のスタンプラリーに参加されると更に楽しめると思います。『日本100名城ガイドブック』に付属するスタンプ帳を利用するのがおすすめです。今回紹介した「津和野城」は日本100名城に選ばれています。

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超がつくほどインドアな人間です。そんな私を外に誘ってくれるもの(自然、史跡、旅行、写真など)について書いています。
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