島根県松江市にある「松江城」。「関ケ原の戦い」で戦功のあった堀尾氏が築城した平城です。天守は全国12城のみに残る現存天守の1つで、平成27年(2015)に国宝指定を受けています。
先日、そんな「松江城」に行ってきました。歴史や個人的な見どころをまとめましたので紹介していきます。
目次
松江城の歴史
築城者は誰? いつ建てられた?
堀尾吉晴像(松江城の大手前) |
松江城は、堀尾吉晴によって築城されました。慶長12年(1607)に築城が開始され、慶長16年(1611)に完成しています。
それまで堀尾氏は「月山富田城」に入城していました。しかし、近代城下町の形成や水上運送に向かないことを理由に、城地の移転を計画し、松江の地に目をつけます。堀尾吉晴は、子の忠氏(当時の藩主)の死後は、孫の忠晴の後見役として、5年の歳月をかけて「松江城」を完成させました。
肩辺りに「分銅紋」(堀江家紋)が見えます |
堀尾吉晴(1543-1611)
堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、豊臣政権の「三中老」の一人とされる武将です。通称は茂助(もすけ)であり、情に厚く温和な性格から「仏の茂助」の異名で呼ばれた人物でした。
生まれは、尾張国丹羽郡(愛知県)。早くから織田信長、木下秀吉(豊臣秀吉)に従って各地を転戦し、「備中高松城の戦い」では、城主・清水宗治の検死役を務めました。秀吉の信頼厚く、豊臣政権では「遠江国浜松」12万石に封じられます。
秀吉の死後は、徳川家康に近づき、「関ヶ原の戦い」の功により、息子の忠氏が「隠岐・出雲国」の2国24万石に加増移封されました。
松江城を改築した城主としては、京極忠高がいます。「松江城」の三ノ丸を修築して完成させました。現在は三の丸の場所に、島根県庁が建っています。
京極忠高(1593-1637)
京極忠高(きょうごくただたか)は堀尾氏が途絶えた後に、松江藩主となった人物です。
父の京極高次は、七光りで出世した「蛍大名」(妹の竜子が豊臣秀吉の側室、妻のお初が淀殿や江姫の姉妹)と囁かれながらも、「関ヶ原の戦い」の際に、大津籠城戦で奮闘した人物です。忠高自身も正妻に初姫(二代将軍徳川秀忠と江姫の四女)をもらい、徳川家と姻戚関係を結んでいます。
忠高は、父から「若狭国小浜」(福井県)の9万2000石を継いだ後に、「隠岐・出雲国」に加増転封となりますが、松江藩主となってわずか3年で死去。嗣子がなく、京極家は一時廃絶となりました。(後に、甥の京極高和が「播磨国龍野」6万石で再興を認められ、その後は「讃岐丸亀」の藩主となります。)
合戦の舞台となったか?
「松江城」は築城されてから一度も合戦の舞台にはなっていません。
しかし、松江城が築城される前、戦国時代の「末次城」(松江城の前身)は、尼子氏と毛利氏の争いで幾度と奪い合いがありました。
末次城
末次城(すえつぐじょう)は、島根県松江市の亀田山にあったとされるお城です。戦国時代には尼子氏と毛利氏との争いで幾度となく奪い合いとなりました。
永禄6年(1563)の「白鹿城の戦い」の頃に毛利元就によって攻め落とされますが、永禄12年(1569)には山中鹿介ら尼子再興軍が抑えて居城としました。しかし元亀2年(1571)になると毛利氏に攻められて落城。毛利元就の八男・毛利元康(末次元康)が入城しましたが、「備後国神辺城」(広島県)に移ったことから廃城したと思われます。その後、城址には「松江城」が築かれることとなりました。
また松江の地の合戦の話ではありませんが、歴代城主の一人である松平直政は、「大坂の陣」にて逸話を残している人物です。敵将の真田信繁(幸村)から勇を讃えられ、投げ与えられた「軍扇」が今も残っており、松江城天守にて展示されています。
松平直政像(鳥取県町前) |
松平直政(1601-1666)
松平直政(まつだいらなおまさ)は、「松江松平家」の初代藩主です。祖父は徳川家康、結城秀康(二代将軍・徳川秀忠の兄)の三男として誕生します。
「大阪冬の陣」には14歳で初陣し、真田信繁(幸村)が守る「真田丸」を攻めました。その後の「大阪夏の陣」では、兄の松平忠直に従って活躍。忠直軍は、真田信繁を始めとする多くの敵将を討つ戦功を上げています。
寛永15年(1638)には、「出雲松江藩」18万6000石(および隠岐国1万4千石)へ加増移封され、国持大名となりました。その後、松江藩では、明治時代まで「松江松平家」の統治が続くこととなります。
著名な歴代城主は?
江戸時代の大名茶人として有名である松平不昧がいます。財政難に苦しむ松江藩の藩政に尽力し、「松江松平家」中興の祖とも云われます。
松平不昧(1751-1818)
松平不昧(まつだいらふまい)は、「松江松平家」の七代目藩主。江戸時代の代表的茶人の一人です。本名は治郷(はるさと)。
17歳で藩主となると、家老に朝日丹波(朝日茂保)を起用し、「御立派の改革」と呼ばれる財政改革を進めさせ、藩の財政を立て直しました。
一方で、現代まで続く茶道「不昧流」を確立。城下町を中心に茶の文化が根付き、お菓子の文化も発展し、「松江」が「京都」・「金沢」と並ぶ日本三大菓子処として呼ばれる由縁になったとも云われます。
廃城理由は?
明治4年(1871)の「廃藩置県」施行、明治8年(1873)の「廃城令」公布により、天守を除く建造物が取り壊されました。天守も180円で売却される予定でしたが、地元の有志が私財を投じて買い戻され、保存されたことにより現在に至っています。
松江城の見どころ(訪問記)
巨大な桝形虎口「馬溜」
大手から入城すると、広く開けた場所があり、奥に高い石垣がそびえ立ちます。
ここは「馬溜(うまだまり)」と呼ばれる正方形の平地。一辺46メートル、正面の石垣は13メートルあります。ここに敵を誘い込み、身動きがとれなくなったところを、石垣や門の狭間(さま)から、鉄砲や弓矢のえじきにするという防衛施設の役割がありました。
この入口の形態は、「桝形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれるもので、敵兵の侵入の勢いを弱める以外にも、出兵の際に城兵を待機させて隊形を整える機能があったと考えられています。
弓矢や鉄砲で攻撃するための狭間が見えます。 |
「本坂」と石垣
本丸に続く長い階段が「本坂」です。ここらで石垣を眺めていると、「分銅紋」の刻印がついたものがいくつか見つかりました。「分銅紋」は堀尾家の家紋です。大手にあった堀尾吉晴公の銅像にも紋が入っています。
他にも五芒星や三角形など、色々な刻印がついているものがあります。刻印だけでなく、石の形も様々で、ハートの形の石垣なんてものもあるとか。色々と探してみるのと楽しそうですね。
石垣の隅は、算木積み。 |
国宝・現存12天守の1「天守」
質実剛健。無骨な感じが素敵。 |
国宝の「複合式・望楼型」の天守です。「複合式」とは、天守に付櫓(つけやぐら)がついている形式。「望楼型」とは、入母屋造(いりもやづくり)の建物の上に、大きな物見の建物(望楼)を載せた型です。
右下の部分が付櫓です。 |
天守の高さは約30メートル、天守台(石垣)のみで7メートルあります。現存する12天守の中では3番目の高さ、総床面積では2番目の広さとなっています。(どちらも1位は姫路城)
横から見ても素敵です。 |
天守内部も勿論、見学できます。天守内に井戸があることに驚いてしまいました。現存天守内に井戸があるのは、松江城のみらしいです。真田信繁(幸村)から松平直政に与えられた「軍扇」や、後藤又兵衛の甲冑や槍など、展示品も豊富です。
最上階からは、城下町を360°見渡すことができます。歴代の松江城主もここから眺めたことでしょう。思いを馳せるような気持ちになれますね。
宍道湖も見えます。 |
以上、松江城の見どころ・景観でした。
松江城の周辺おすすめスポット
塩見縄手(小泉八雲記念館など)
所在地:島根県松江市奥谷町322 |
松江城の北にある江戸時代の雰囲気が残る通りです。『怪談』(雪女や耳なし芳一など)で有名な小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの「記念館」や「旧居」があります。「武家屋敷」や松江城の堀を回る「遊覧船」も合わせておすすめです。
ミートショップいたがき
所在地:島根県松江市西茶町71 |
松江城に行くまでの間に、行列の並ぶ店を見つけました。地元で有名なお肉屋さんらしく、「手造りビーフコロッケ」はとても美味しかったです。
宍道湖と嫁ヶ島
所在地:島根県松江市袖師町5 |
宍道湖は夕日の美しさは日本随一。なんと夕日を見るためにバスが出ているぐらいです。私はバスを一本乗り遅れてしまい、夕日の絶頂期こそは見逃してしまいましたが、宍道湖のさざなみに癒やされました。
松江城のアクセス情報
終わりに
「ストリートファイターⅡ」
最後に余談ですが、人気格闘ゲーム「ストリートファイターⅡ」のステージ背景のお城は、松江城天守がモデルです。好きなゲームシリーズだったので、なんだか嬉しいですね。ますます松江城が好きになりました。
以上、松江城の魅力が少しでも伝わっていれば嬉しいです。
(訪問日:2021年12月)
お城を巡られるならば、100名城のスタンプラリーに参加されると更に楽しめると思います。『日本100名城ガイドブック』に付属するスタンプ帳を利用するのがおすすめです。今回紹介した「松江城」は日本100名城に選ばれています。
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