鳥取県浜田市にある「浜田城」。築城から240年以上もの間、浜田藩政の中心地でしたが、幕末になると長州藩の軍に攻められて灰燼に帰すことになりました。
今は石垣に残る苔に思いを馳せる、そんな大人の楽しみが味わえる場所となっています。
今回は「浜田城」に行ってきましたので、歴史や見どころ、周辺スポットなどを紹介していきます。
目次
浜田城の歴史
築城者は誰? いつ建てられた?
浜田城は、古田重治(ふるたしげはる)によって築かれました。元和6年(1620)に築城が開始され、元和9年(1623)に完成しています。
古田重治(1578-1625)
古田重治(ふるたしげはる)は、石見国浜田藩(島根県浜田市)の初代藩主となった人物です。 「名古屋城普請」や「大阪の陣」にて功績を残しています。
出自は羽柴秀吉の家臣で古田重則の三男。家督を継いだ長兄の重勝(松阪城城主)が死去した際、兄の子・重恒が幼かったため、家督を継ぎ、伊勢国松阪藩主(三重県松阪市)となりました。
元和5年(1619)、石見国浜田に移封されると、浜田城や城下町を完成させ、浜田川・浅井川の治水工事を務めます。その後は、家督を兄の子・重恒に譲り、江戸にて隠居しました。
歴代城主は?誰が治めた城?
慶安元年(1648)、浜田藩の2代目藩主・古田重恒は、「古田騒動」(お家騒動)を経て、嗣子なく没し、改易となりました。
その後の浜田城は、徳川家ゆかりの「親藩」が治める城となっていきます。この理由に、隣の長州藩を治めた毛利氏(萩城主)の抑える役割があったからだと思われます。
「親藩」の統治は幕末まで続きました。松平松井家が五代111年、本多家が三代11年、再び松平松井家が四代68年、松平越智家が四代31年と治めています。
合戦の地となったか?
大村益次郎像(靖国神社) |
第二次幕長戦争
慶応2年(1866)、「第二次幕長戦争」において、大村益次郎が率いる長州軍の侵攻を受けました。浜田藩領内では益田・内村・大麻山・周布など、各地で戦いが起こります。
浜田城下に長州軍が迫ると、敗残の兵が浜田城や城下町に火を放ったため、城は灰燼に帰すこととなりました。
大村益次郎(1824 -1869)
大村益次郎(おおむらますじろう)は、幕末期の長州藩の人物です。「維新の十傑」の一人に数えられ、近代軍制の改革に大きく貢献したことから「陸軍の父」と称されています。
周防国(山口県)の村医者の長男として生まれ、緒方洪庵の「適塾」等に学んで蘭学と医学を修めると、伊予国宇和島藩(愛媛県宇和島市)に招待され、西洋兵書の翻訳や軍艦製造に着手します。後に長州藩士として取り立てられると、「第二次幕長戦争」では石州口方面を担当し、浜田城を陥落させ、石見銀山を占領しました。
慶応4年(1868)に「戊辰戦争」が始まると、討伐軍として上洛し、「上野戦争」では3千の彰義隊の反乱をわずか一日で壊滅させます。その後は、事実上の新政府軍総司令官として指揮を取り、「戊辰戦争」を終結に導きました。
その後、明治新政府でも軍制改革に取り組み、「徴兵制度」や「廃刀令」の導入、「鎮台」や「兵学校」の設置等の政策を建白します。しかし、明治2年(1869)、不平士族の襲撃を受け、傷の悪化が原因で亡くなりました。
廃城理由は?
上記の合戦(第二幕長戦争)において、城は灰燼と帰して廃城となりました。
当時の藩主・松平武聡は大病で倒れていて指揮がとれず、浜田城下に長州軍が迫ると、戦わずして退去しています。
松平武聰(1842 -1882)
松平武聡(まつだいらたけあきら)は、浜田城の最後の城主です。常陸国(茨城県)水戸藩主・徳川斉昭の十男として誕生し、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の異母弟になります。
慶応2年(1866)、「第二次幕長戦争」に参加するも、大病で倒れて指揮がとれず。大村益次郎率いる長州軍に浜田領を侵攻されると、浜田城に火を放ち、藩から退きました。
後に飛地である美作国鶴田(岡山県津山市里公文)で鶴田藩主となり、明治時代になると「版籍奉還」により鶴田藩知事に就任しています。
浜田城の見どころ(訪問記録)
浜田護國神社と司馬遼太郎碑文
本丸へ行く前に「浜田護國神社」に寄りました。ここはかつての「二ノ丸」跡で、ここに城主の御殿や藩庁があったのではないかと考えられています。神社の横を通り、本丸へと続く道の途中には、司馬遼太郎の碑文が置かれています。
こちらで御城印が販売されているのですが、「石州和紙」が使われています。「石見神楽蛇胴紙」バージョンの方は、石見神楽の「大蛇」で使用された古紙を再利用して台紙にしたものです。異なる色や柄の中からお気に入りを一つ選べました。
吟味して一つ選ばせてもらいました。素晴らしい御城印。 |
神社の裏手には「浜田藩追悼の碑」があります。中央の碑文は司馬遼太郎に依頼して作られたものです。石見国の歴史と気質について書かれており、興味深く読ませてもらいました。
浜田市の公式ページによると、司馬遼太郎は著書『花神』の中で、「第二次幕長戦争」について触れていて、浜田の歴史に関心を寄せていたそうです。『花神』は浜田城に進軍した大村益次郎を主人公にしており、NHK大河ドラマにもなりました。私もかつて『花神』を読んだことがあるのですが、随分前のことでどんな風に描かれていたのか、すっかり忘れています。これを機にもう一度読もうと思います。
三丸
「護国神社」の横にある登城口付近にも石垣がいくつも残っています。
登城口の移築門(津和野藩庁から移築したもの)をくぐると「三丸」です。幅広の折り曲がった石段を登っていきます。ここらの土塁や石垣がとても素敵でした。苔むした感じがいいですね。
道中、「梅の紋」がついた旗立のようなものを見つけました。浜田城は、石垣以外の城跡がほとんど残っていないので、貴重なものだと思うのですが、詳細がわからず。「梅の紋」を家紋とする城主がいたわけでもないので気になりますね。
「三丸」 |
ニノ門跡
「三丸」の先に「ニノ門」跡があります。「ニ丸」の入り口で、かつては大きな櫓門が建っていました。出入り口は「桝形虎口」です。門をくぐると、高い石垣に囲まれた四角(桝形)の空間が設けてあり、敵の侵入を阻む構造となっています。
本丸・外ノ浦
「ニ丸」の先に「本丸」があります。南北60メートル、東西55メートル程の広い空間には、塀と狭間が廻らせられていたそうです。北西隅には高さ14メートルの三重の天守がありました。
「本丸」からは、「松原湾」と「外ノ浦」が望めます。もし天守が残っていれば、天守からの眺めはさぞ素晴らしかったことでしょう。
「外ノ浦」は風待ちの港として、多くの北前船が寄港したと云われています。貿易港として大正時代まで続きました。2018年には北前船寄港地として「日本遺産」に認定されています。
浜田城歴史資料館
帰る前に、麓にある「浜田城歴史資料館」に寄っていきましょう。なんと入館無料。浜田城や外ノ浦、御便殿などについての展示されています。こちらにも「続日本100名城」のスタンプがありました。
資料館近くの浜田川や松原浦の景観を横目に少し散策。「海城」とも呼ばれ、海や川を意識した城郭だということが実感できました。
以上、浜田城の見どころ・景観でした。
浜田城の周辺おすすめスポット
はまだお魚市場
浜田港の公設市場です。浜田漁港で水揚げされた旬の鮮魚店だけでなく、島根の特産品を取り揃える商業棟もあり、2Fのフードコードでは、浜田の旬をその場で味わえます。私は「のどぐろの炙り丼」をいただきましたが、口の中で、とろける美味しさでした...。
島根海洋館アクアス
シロイルカで有名な水族館です。神話に縁のあるサメをテーマにした海底トンネルや、近海でとれるノドグロやトビウオの展示など、地域性もあって、見どころ満載でした。
石見神楽
浜田に来たのなら「石見神楽」はとてもおすすめです。土日に様々なところで公演しています。たまたま観る機会に恵まれたのですが、本当に素晴らしかったです。
浜田城へのアクセス・駐車場情報
終わりに
浜田駅前 |
今は石垣のみが残る浜田城ですが、石見の歴史や文化に思いを馳せて訪れると、より味わい深くなるお城だと感じました。
記念に栞を買って帰りました(JR浜田駅) |
以上、浜田城の魅力が少しでも伝われば嬉しいです。
(訪問日:2021年12月)
お城を巡られるならば、100名城のスタンプラリーに参加されると更に楽しめると思います。『日本100名城ガイドブック』に付属するスタンプ帳を利用するのがおすすめです。今回紹介した「浜田城」は続日本100名城に選ばれています。
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