島根県安来市にある「月山富田城」(がっさんとだじょう)。戦国時代に山陰の覇者である尼子氏が本拠を構えた山城です。
力攻めで落ちることがなかった難攻不落の堅城として知られ、中国地方の覇権を巡る戦いの舞台に何度もなりました。
先日、そんな「月山富田城」を訪れました。歴史や個人的な見どころ、周辺スポットなどをまとめましたので紹介します。
目次
月山富田城の歴史
築城者は誰? いつ建てられた?
月山富田城の築城者や築城年日については、はっきりと分かっていません。
古いものでは、「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つ藤原景清(平景清)によって、平安時代末期に築城されたという伝承が残っています。しかしこの景清 は生涯に謎が多く、各地に様々な伝説が残るような人物。詳しいことはほとんどわかっていません。
恐らくとされるのは、承久3年(1221)。「承久の乱」の戦功により、佐々木義清が出雲・隠岐国の守護に任命されたときに、「月山富田城」を居城としたと云われています。
有名な城主は?尼子氏?
尼子経久像(三日月公園) |
尼子持久(1381-1437)
出雲尼子氏の祖とされるのが、尼子持久(あまごもちひさ)です。「月山富田城」は尼子六代の居城として知られますが、最初の人物にあたります。出雲守護である京極氏の守護代(代官)として、「月山富田城」に入城したのが出雲尼子氏の始まりです。
もともと尼子氏は、近江国(滋賀県)を本拠地とする源氏・佐々木氏の一族でした。「婆娑羅大名」として名高い佐々木道誉(京極高氏)の孫が、近江国犬上郡尼子郡を領し、尼子高久と名乗ったことに始まります。その次男が尼子持久になります。
尼子経久(1458-1541)
戦国大名・尼子氏の礎を築いたのが尼子経久(あまごつねひさ)でした。尼子持久の孫にあたります。出雲守護の京極氏から「月山富田城」を奪取して下剋上を果たし、山陰での勢力を拡大しました。
「毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才」と云われる一方で、『塵芥物語』によると、家臣に自分の持ち物を褒められると高価なものでも与えてしまうため、「天性無欲正直の人」と評されています。そんな二面性から「謀聖」とも称されました。
尼子経久(1458-1541)
尼子経久(あまごつねひさ)は、「月山富田城」を本拠とした戦国大名です。出雲守護代である尼子清定の嫡男として生まれ、父から家督を継ぎました。
しかし、文明16(1484)年、寺社領の横領や公用銭の徴収拒否などの理由により、守護・京極政経や幕府と関係が悪化し、守護代の職を追われてしまいます。江戸時代の軍記物では、この時に諸国を流浪した経験を活かして、「月山富田城」を奪取したと書かれています。後に京極政経との関係を修復すると守護代に復帰しました。そして京極政経が亡くなると、出雲の統治者としての地位を確立します。
その後は、山陰・山陽一帯に勢力を拡大し、各地の国人衆を掌握しました。大永4(1524)年の「大永の五月崩れ」と呼ばれる伯耆国(鳥取県西部)への侵攻では、一夜にして伯耆国内の諸城が陥落したと伝わります。その影響力は「十一カ国太守」と呼ばれるほどでした。
尼子晴久(1514-1561)
尼子氏の全盛期を築いたのが、尼子晴久(あまごはるひさ)でした。尼子経久の孫にあたります。山陰・山陽8ヶ国の守護に任じられ、中国地方一の大大名となりました。
尼子晴久(1514-1561)
尼子晴久(あまごはるひさ)は、尼子経久の孫で、尼子氏の全盛期を築いた戦国大名です。
周防の大内氏、安芸の毛利氏と戦いながら、「石見銀山」を手中に収めて、勢力を拡大。大内義隆が「大寧寺の変」で死去すると、将軍・足利義輝より、山陰・山陽8ヶ国の守護に任じられ、中国地方一の大大名となりました。
晩年は、叔父・尼子国久ら「新宮党」を粛清することで権力基盤を強化しましたが、この頃になると大内氏を滅ぼした毛利元就が中国地方を席巻し、領国各地で毛利側の国人・大名と攻防を繰り広げることになります。東山陽方面では浦上氏や三村氏などを撃破し、西山陽方面でも毛利氏の侵攻をよく防ぎましたが、「月山富田城」内で急死。以後、尼子氏は衰退していくこととなります。
尼子家で有名な家臣は?山中鹿介?
山中鹿介像(月山富田城) |
尼子家の家臣として有名なのが、山中鹿介(やまなかしかのすけ)です。大名としての尼子氏が滅亡した後も、尼子家再興のために尽力した人物として知られています。
尼子家再興に一途に歩んだ生き様が、江戸時代には忠義の武将として描かれ、明治時代以降には国民教育の題材として教科書に載るなど、世に広く知られています。
山中鹿介(1545-1578)
山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、尼子氏の家臣で、尼子家再興のために尽力した人物です。本名は幸盛(ゆきもり)ですが、鹿之介の通称でよく知られています。
永禄9(1566)年、毛利元就によって「月山富田城」が開城させられ、大名・尼子氏が滅亡すると、浪人として諸国を放浪します。その後は京都に上り、「東福寺」で僧をしていた遺児の尼子勝久を還俗させ、尼子家再興のために各地で転戦しました。
出雲に侵攻した際には、「月山富田城」を包囲するまでに至りましたが、徐々に劣勢となり、その後は因幡(鳥取)方面で転戦。最終的には織田信長と結び、明智光秀や羽柴秀吉の軍勢に加わります。しかし播磨国(兵庫県)にある「上月城」の守備を命じられていたところを、毛利の大軍勢に包囲されて孤立。徹底抗戦するも、主君・勝久は自刃し、鹿介も捕らえられて、移送の途中で殺されました。
合戦の地となったか?
「月山富田城」は大きく三度、合戦の地となっています。
第一次月山富田城の戦い(1542-1543年)
1度目は、尼子氏が守る城を大内氏が攻めた「第一次月山富田城の戦い」です。大内・毛利らの連合軍に1年4ヶ月もの間、攻囲されましたが、ゲリラ戦術や国人衆の寝返りにより、ついに撃退に成功します。この時の尼子勢の追撃は激しく、殿を命じられた毛利元就と毛利隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたと云われています。
第二次月山富田城の戦い(1565-1567年)
2度目は尼子氏が守る城を毛利元就が攻めた「第二次月山富田城の戦い」です。各地の拠点制圧や海上封鎖によって補給線が断ち切られた結果、兵糧が尽きて降伏開城することとなりました。この戦いにより、尼子氏を滅ぼした毛利氏は、西国随一の大大名となります。
尼子再興軍による月山富田城の戦い(1569年)
3度目は山中鹿介らが居城奪還を狙った「尼子再興軍による月山富田城の戦い」です。再興軍の包囲により、一時は兵糧が尽いて落城寸前まで追い込まれますが、城主・天野隆重の計略と毛利軍の救援により、失敗に終わりました。
難攻不落の名の通り、いずれも力攻めでは陥落しませんでした。
廃城理由は?
慶長16年(1611)に堀尾忠晴が「松江城」に移り、廃城となりました。
尼子氏が「月山富田城」から去ってから廃城となるまでは、吉川広家や堀尾吉春の居城となっており、その時に近世城郭として改築された石垣の跡が今でも残っています。
吉川広家(1561-1626)
吉川広家(きっかわひろいえ)は、毛利家の家臣で、「月山富田城」の城主となり、近世城郭へと改修した人物だと考えられています。同時期に「米子城」の築城にも着手しています。
関ヶ原の戦いでは、主君の毛利輝元が西軍の総大将に就任しながらも、徳川家康率いる東軍と内通し、東軍の勝利に貢献しました。戦後は毛利家を改易の危機から救い、周防国(山口県)岩国領の初代領主となっています。
堀尾吉晴(1543-1611)
堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、「月山富田城」を本城とした最後の人物です。
「関ヶ原の戦い」の功績から、息子の忠氏が「隠岐・出雲国」の2国24万石に加増移封され、「月山富田城」に入城しました。しかし、近代的な両国支配の体制づくりに適さないとの判断から「松江城」に本拠地を移し、「月山富田城」は廃城となります。
月山富田城の見どころ(訪問記)
尼子経久像と「三日月公園」
登城前にまずは「三日月公園」へ。飯梨川(富田川)を挟んで対岸にあります。そこに尼子経久公の銅像が建っています。
尼子経久は尼子氏繁栄の礎を築いた人物です。守護の京極氏から月山富田城を奪取して下剋上を果たすと、戦国大名として勢力を拡大し、山陰・山陽11カ国を治めました。
銅像の至るところに、尼子家の家紋「平四つ目結紋(ひらよつめゆいもん)」が見られます。尼子氏は、近江源氏の佐々木氏の流れをくむ京極氏の分家で、家紋は京極氏と同じものを使っています。
この公園からは、「三笠山」や「経塚山」が望めます。その昔、山中鹿介が「三笠山」にかかる三日月を拝して、「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と祈ったそうです。私も手を合わせておきました。
尼子経久像が指す方向にあるのが三笠山です。 |
もう一つの「経塚山」は、尼子経久の祖父・尼子持久が子孫繁栄を願い、自らが写した一切経を埋めたことに由来を持つ山です。天文12年(1543)に大内義隆が富田城に攻めてきた時、大内家重臣の陶晴賢(後に大寧寺の変を引き起こす)が陣取った場所でもあります。
実はこの公園からは、月山富田城「三ノ丸」の石垣が望めるのですが、このときはよくわかっていませんでした。「三ノ丸」を意識して写真を撮ればよかったと少し後悔...。
緑の○のところに、三ノ丸?がかろうじて写っています。 |
公園近くの「富田橋」を渡って、すぐ近くにある「巌倉寺」の赤門からも登城できます。私はもう少し先まで道路を歩き、道の駅「広瀬・富田城」の裏から登り始めました。道の駅「広瀬・富田城」のお隣には「安来市立歴史資料館」があります。
道の駅の裏からの登山道です。 |
曲輪郡「馬乗馬場」・「千畳平」
右に見える平坦地が「馬乗馬場」です |
蛇行する坂道を駆け上がると、左手に「馬乗馬場(うまのりばば)」が現れます。月山富田城に数多く築かれた曲輪(くるわ)の一つで、広い尾根を削って平坦に整えられているのがわかります。(曲輪とは、土塁や石垣などでつくった区画のことです)
城の最北端・最前線の曲輪になります。ここから麓の城下町を挟んで、大内軍や毛利軍と対峙したのかもしれません。
この先にも曲輪がいくつも作られています。難攻不落と言われた「月山富田城」のスケールの大きさを感じ入るばかりです。
「馬乗馬場」の西手に見える「千畳平(せんじょうひら)」は更に大きな曲輪です。私が行ったときは工事中(発掘調査?)で、残念ながら見学できませんでした。
周囲に石垣が露出しています(千畳平) |
ご祭神は尼子三代城主(尼子神社) |
山中鹿介像がある「太鼓壇」
「千畳平」から一段登ったところに「太鼓壇(たいこのだん)」と呼ばれる曲輪があります。かつてここから太鼓を鳴らし、城下に時刻を知らせていたようです。ここに「山中鹿介公祈月像」が建っています。
山中鹿助は、尼子氏が滅亡した後も、再興を願い、各地で戦い続けた武将です。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と唱えた逸話は有名で、『三日月の影』として戦前の教科書に載っているほどでした。三笠山にかかる三日月に祈ったという伝承にもとづいて、三笠山の方角を向いています。
山中鹿介には裸木や岩の険しいイメージが似合いますね。 |
遺構群「花の壇」・「山中御殿」
「花の壇」。山上に見えるのが主郭です。 |
道中、「花ノ壇」という建物や柵が復元されている場所があります。ここはかつて「侍所」として利用されていたと考えられています。城内道を見渡せることから、敵の侵入の監視に長けている場所だったそうです。
その先は、「山中御殿(さんちゅうごてん)」。広大な曲輪跡が残り、城主の居館があったと推測されています。「本丸」を目指す3方面からの登城口が合流する地点であり、防御の要でした。
「山中御殿」。3000㎡の平坦地。広い! |
主郭へと至る急坂「七曲り」
「山中御殿」の先には、主郭へと至る坂道「七曲り」があります。整備されているとはいえ、なかなか手応えのある勾配です。階段前には「頂上まで20分」の看板がありました。
ここ以外には「本丸」へ行く道はありません。道の所々には曲輪が設けられて、防御の要所となっています。なんと中腹には井戸までありました。改めて籠城に向いている山城だと思い知らされました。
「山吹井戸」 |
「三ノ丸」・「二ノ丸」
正面は「三ノ丸」、左「七曲り」を登ってきました |
「七曲り」を登り終えると、ようやく山頂が見えてきます。山頂部は、長い尾根の上を連郭式に曲輪が続きます(「西袖ヶ平」、「三ノ丸」、「二ノ丸」、「本丸」)。
「西袖ヶ平」からは城下町を一望できます |
「三ノ丸」に登ると鳥居があります。奥に「三角点」 |
「三ノ丸」の幅は30m、長さは80m程あるらしいです。 |
「三ノ丸」を奥に進むと、一段高くなって「二ノ丸」が繋がっています。「二ノ丸」は幅・長さ共に約30メートルの曲輪となっています。
ここからの眺望は特に素晴らしいです。「島根半島」や「中海」までをも望めます。ありがたいことにベンチが用意してあったので、ここで昼食をいただくことにしました。
看板には毛利元就が総攻撃した時の経路が載っていました |
「二ノ丸」には東屋がありました。発掘調査により建物跡が確認されていて、その痕跡に建てられているようです。
東屋の内には、登頂記念のノートやオリジナルスタンプ、地元の方が撮った四季折々の写真展示がありました。助太刀傘なるものも置いてあります。心安らぐ素敵な場所ですね。
不落の「本丸」
お気に入りの石垣です。 |
「二ノ丸」から巨大な堀切(空堀)を挟んで隣にあるのが「本丸」です。「二ノ丸」側の石垣と「本丸」側の土塁の間には、深さ10mの大きな堀切が造られています。「本丸」に向かうには、一度「二ノ丸」を下りて、帯曲輪を伝い、堀切を越えていかなければいけません。
石垣群は尼子氏の時代ではなくて、その後の時代(吉川氏、または堀尾氏)のものだと思われます。
「二ノ丸」と「三ノ丸」の周囲をめぐる帯曲輪。 |
「本丸」は幅20m、長さ170m程。 |
本丸北側には「山中鹿介幸盛記念碑」があります。鹿之介333回忌の記念に明治44年に建てられました。
「鹿介幸盛記念碑」 |
そして、本丸最奥には「勝日高守神社(かつひたかもり)」が鎮座しています。奈良時代に編集された『出雲国風土記』にも記載がある由緒ある神社です。歴代城主の信仰が厚く、特に尼子氏は熱心だったと伝わっています。
「月山富田城」は力攻めでは陥落したことがない城ですが、ここまでは敵兵が侵入したことはあったのでしょうか。麓の「歴史資料館」の年表には、尼子・毛利両軍が城内「七曲り」口にて衝突したと載っていましたが、はたして...。
以上、月山富田城の見どころ・景観でした。
周辺おすすめスポット
安来市立歴史資料館
安来市の古代から近世にかけての歴史資料や遺物がわかりやすく展示してあります。こちらで御城印や武将印、「勝日高守神社」の御朱印などが貰えます。
大山の景色
バスで「安来駅」まで帰る途中、窓から「大山」が見えました。冠雪した山の美しさに感動。いつの日か登ろうと心に決めました。
月山富田城のアクセス・駐車場
終わりに
『出雲国風土記』によると、この地「安来」の由来は、スサノオノミコトがこの地に来て、「私の心は安らかになった」と言ったことからだそうです。お城の麓にある「安来市立歴史資料館」で学ばせていただきました。
「安来」の地に来て、「月山富田城」を登り終え、私の心もいくらか安らかになった気がします。...気のせいかもしれませんが。
以上、月山富田城のの魅力が少しでも伝わっていれば嬉しいです。
(訪問日:2021年12月)
お城を巡られるならば、100名城のスタンプラリーに参加されると更に楽しめると思います。『日本100名城ガイドブック』に付属するスタンプ帳を利用するのがおすすめです。今回紹介した「月山富田城」は日本100名城に選ばれています。
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