「忘れめや よるべも波の あら磯を 御船の上に とめし心を」 |
鳥取県西伯耆郡大山町にある「御来屋(みくりや)」と「名和」。今から700年近く前、隠岐の島に流刑となった後醍醐天皇が命がけで脱出し、たどり着いた場所でした。後醍醐天皇はこの地で海運業を営んでいた名和長年(なわながとし)に保護されます。
名和長年は、後醍醐天皇を「船上山」に迎え入れ、20倍もの鎌倉幕府の軍勢を撃退しました。そして、「船上山」にて後醍醐天皇の討幕の綸旨が発せられると、足利尊氏、新田義貞を始めとする各地の諸将は天皇方に味方し、約80日後に鎌倉幕府は滅ぶことになります。
そんな「太平記」の舞台地、大山町「御来屋」と「名和」の町を歩いてきましたので、写真とともに紹介します。
目次
御来屋港(名和湊)
後醍醐天皇が漂着した「御来屋港」(名和港)。その地名の由来は、「伊勢神宮」の御厨(みくりや)だそうです。
「お腰掛けの岩」。この地に漂着した後醍醐天皇が、疲れた体を休めるために、海岸にあった大きな岩に腰をかけたという言い伝えが残っているそうです。
後醍醐天皇のデザインが斬新! 海外の方の作品みたいです。不屈の精神を持つたくましさが感じられて、面白いと思います。サモアンフックが飛んできそう...。
御来屋港のすぐ近くにの住宅街の中に碑がたてられていました。後醍醐天皇が御来屋に上陸した時に、しばらくこの家で匿われたれたそうです。
お魚センターみくりや
直販店と地魚料理のお店。御来屋港で水揚げされた鮮魚が並びます。2階の地魚料理「恵比須」で食べた海鮮丼は、山陰旅の中でも特別に美味しかったです。
名和神社
名和長年ら一族郎党42人の英魂をまつる「名和神社」を訪ねました。
「御来屋港」から坂道を上がっていく途中、「名和駅」を通ります。無人駅で本数は2時間に1~2本。帰りに1本乗り遅れてしまい、次の列車を待つ間、「名和」の町を色々と歩いたのは内緒です。
御朱印をいただいて、宮司代理の方と少し雑談を。私の母方が名和家の血筋らしくて、一度訪れたい場所でした。
長綱寺
名和一族の菩提寺です。後醍醐天皇が足利尊氏に追われ、足利氏の天下になってからは、長年(長高)との関連を知られないために、「長高庵」を「長綱庵」(後に長綱寺)と改名したそうです。
「帆掛け船」の紋、いいですね...。名和長年が後醍醐天皇から賜った寺紋と伝わります。赤い「石州瓦」も風情を感じます。石見(島根西部)でよく見ましたが、伯耆(鳥取西部)の方まで使われているんですね。
裏山に名和公一族郎党のお墓があります。
町と史跡と道の駅
「名和駅」にて電車を乗り遅れてしまったので、次の電車が来るまでの間、町を歩きながら史跡巡り。名和公ゆかりの場所がいくつも残っていて驚きました。
撮った時は「だいこくさま」の鬼瓦かと思ったけれど、今見ると「えびすさま」かな? どちらも山陰に縁のある神様ですね。偶然にも前日に「だいこくさま」ゆかりの「出雲大社」に行き、翌日に「えびすさま」総本社の「美保神社」を訪れました。
弓の名手だった名和一族は、この的石で稽古をしたそうです。特に名人と称された名和長年、五人張りの強弓を引き、一矢で敵兵二人を射倒したと伝えられています。
こちらは「名和神社」の旧社殿。元は名和長年の館の跡と言われ、地元の人が「氏の殿」として社を建てたのが始まりだそうです。江戸時代に池田光仲(鳥取藩主)の命令で「氏殿権現」として祀られるようになりました。
討死した名和長年公と息子たちの首塚です。左から名和長年公、長男の義高公、三男の高光公。首塚の前で黙祷をしておきました。
道の駅 「大山恵みの里」に寄って、電車が来るまで休憩。朝から「月山富田城」に登り、お昼からは「名和」で史跡巡り。沢山歩いたので疲れました...。
おしまい。
(訪問日:2021/12)
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